イケメンで天才プレーヤー パブロ・アイマールのプレー集をあなたに

1979年11月3日、コルドバ州にあるリオ・クアルトという町に生まれた。父親のロベルト・アイマールはEl Payo(バージョ、田舎者)の愛称で、古豪ニューウェルズ・オールドボーイズでの選手経験もある元サッカー選手である。パブロはEl Payaso(パジャッソ、ピエロ)と呼ばれることがあるが、これはRoberto(ロベルト)という男性名の愛称に因んだEl Payito(パジート、小さなバージョ)が原形にあり、彼の華麗なプレーに驚いたメディアが名付けたものである。また、ミドルネームは「セサール」であるが、これはアルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップでアルゼンチン代表に初優勝をもたらしたセサール・ルイス・メノッティ監督に敬意を表して付けられたものである。家族は他に姉と弟がおり、弟のアンドレス・アイマールもサッカー選手であるが、パブロとは違い直毛である。

小学校に入学するのと同じ時期に地元のAAエストゥディアンテス(スペイン語版)に入団。14歳となる1993年に名門CAリーベル・プレートのスカウトの目にとまり、トライアウトを受けて合格した。しかし、父ロベルトはプロで成功しなかった自身の経験を鑑みて、この話を断った。中流階級育ちのパブロは薬学の勉強にも熱を入れ、将来は医学系の職に就くという目標も持っていたためである[2]。しかし、CAリーベル・プレートの下部組織で長年コーチを務めるホルヘ・ブスティが電話で説得を続け、結局入団が決まった。

クラブ経歴
CAリーベル・プレート
17歳のカテゴリーに昇進した1995年にプロ契約し、1996年8月11日、CAコロン戦でプリメーラ・ディビシオンデビューを果たした[3]。1997-98シーズンにはレギュラーに定着し、同シーズンのリーグ優勝に貢献。退団までに5つのタイトルを獲得した。1998年に加入したハビエル・サビオラとは、ピッチの内外で良好な関係を築き、退団までに合計87試合22ゴールの成績を残した。

バレンシアCF
2001年1月、移籍金2400万ユーロでバレンシアに移籍した[4]。バレンシアで着けた背番号21番は、FCバルセロナでルイス・エンリケが着けていた背番号に由来した。第23節のラス・パルマス戦でリーガ初ゴールを決めた[5]。またUEFAチャンピオンズリーグで2年連続の決勝進出を果たし[4]、バイエルン・ミュンヘンにPK戦で敗れたものの、クラブ史に残る成績を挙げた。2001年夏に就任したラファエル・ベニテス監督はトップ下を置かない守備的な戦術を取ったため出場機会を減らしたが、2001-02シーズン後半に差しかかったところで「フォワードの後ろでプレーさせてほしい」と直訴してポジションを得ると、33試合に出場して4得点を記録し、31シーズンぶりのリーグ優勝に貢献した。2002-03シーズン、第7節のアスレティック・ビルバオ戦ではハットトリックを決めた[5]。2003-04シーズンには国内リーグとUEFAカップの2冠に貢献するなど[4]、中心選手として活躍した[6]。2004年夏のプレシーズンにはバレンシアの一員として来日し、新潟県でJリーグのアルビレックス新潟と親善試合を行った。この際、同県を中心に被災者を出した水害や中越地震に心を痛め、義援金100万円を出している。この試合は5-2で新潟が勝利しているが、アイマール自身は負傷のため試合には出場していない。

2004年夏にクラウディオ・ラニエリ監督が就任すると、本来のポジション以外で起用されたり、先発メンバーを外れることが多くなった[4]。しかし2005年2月に成績不振からラニエリが退任し、アントニオ・ロペス監督が就任した後は、チームの中心に据えられて再び輝きを取り戻した。2005-06シーズンは負傷に悩まされ、更にキケ・サンチェス・フローレス監督の起用法の影響もあって、本来のプレーを発揮するに至らなかった。2006年4月12日、酷いウイルス性の髄膜炎と診断されて入院したが[7]、すぐに回復してチームに戻った。バレンシア在籍中にはたびたび負傷に悩まされた[8][9][10]。

レアル・サラゴサ
2006年7月、移籍金1200万ユーロでレアル・サラゴサと4年契約を結んだ[11][12]。攻撃的なスタイルを信奉するビクトル・フェルナンデス監督の下、2006-07シーズンはアンドレス・ダレッサンドロらとともにリーグに旋風を巻き起こし[4]、2007年2月にはEFE通信トロフィー(リーガでプレーする中南米人の最優秀選手賞)を受賞した[13]。2007-08シーズンはバレンシアCF時代もチームメイトであったロベルト・アジャラとともにチームを引っ張ったが、リーグ戦22試合に出場して無得点に終わり、チームもセグンダ・ディビシオン(2部)降格となった。

SLベンフィカ

ベンフィカ時代 (2012年)
SLベンフィカのテクニカルディレクターを務めていたマヌエル・ルイ・コスタの熱心な勧誘により、2008年7月17日、移籍金650万ユーロ(約11億円)の4年契約でSLベンフィカに移籍した[14][15]。2008-09シーズンの前半戦は度重なる負傷に悩まされ、22試合出場1得点と期待外れに終わった。2009-10シーズンは体調を良好に保ち、CAリーベル・プレート時代のチームメイトである新加入のハビエル・サビオラと素晴らしい関係を築いた。25試合に出場して4得点11アシストと大活躍し、5シーズンぶりにリーグ優勝を果たした。

2013年6月、ベンフィカからの退団を表明[16]。

ジョホール・ダルル・タクジムFC
2013年9月、2014シーズンからマレーシア・スーパーリーグのジョホール・ダルル・タクジムFCに加入する事が発表された。しかし、怪我のため8試合しか出場できず、2014年4月22日に解雇された[17]。

CAリーベル・プレート復帰
2015年1月5日、2014年4月にジョホールFC(マレーシア)を退団後は無所属になっていたが、14年ぶりにCAリーベル・プレートに復帰することが発表された[18]。5月31日のロサリオ・セントラルとの対戦に途中出場したが[19]、右踵の痛みに悩まされ、コパ・リベルタドーレス準決勝の招集リストからも外されたのを機に、7月15日引退を発表

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB

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