池内豊投手は、南海時代5年間で勝ち星はなく、最後の2年間は1軍登板もなく、他球団に行けばチャンスはあると思っていた時、江夏豊投手との大型トレードの一員となり阪神移籍。
南海時代の同僚で同級生の新井宏昌に、「(自分のような左打者にとって)球筋がとても見やすい(ので打ちやすい)」との指摘を受けていて、フォームを改造。
その成果が出て、78年9勝。プロ唯一の完投勝利もマーク。翌79年は抑え転向で13Sと活躍。その後は貴重な中継ぎとしてブルペンを支え、82年のシーズン73試合登板は、当時のセ・リーグ公式戦歴代最多で日本プロ野球公式戦歴代5位タイ。
長崎啓二との交換トレードで横浜大洋移籍も振るわず1年で戦力外。阪急のテストを受け入団もわずか5試合の登板で引退。
通算成績
452試合 31勝31敗30S 防御率3.92
23 Comments
池内豊 投手は、先発で9勝した翌年に抑え転向は驚いた記憶があるが、ハマっていた記憶がある。その後も 阪神 のブルペンを支えたピッチャーだった。動画を見て選手やチームの感想や思い出などのコメントいただけるとうれしいです^^ただ、建設的な討論コメントはいいんですが、自分の主義主張を無理やり押し付けたりとか人を不快にさせるようなコメントはお断りしています。
阪急に移籍したのは知らなかった😅
バイクリリーフ登板何て今では考えられないレアな時代。
投球フォーム真似してたな😁
大洋の時に阪神戦で若菜とバッテリーを組んでピンボールまがいの球を投げて阪神のコーチが向かって来そうになった時に来るなと言うポーズをしていたことありました。若菜は若菜で阪神戦にタイムリーヒットを打たれてランナーがホームインする時にホームベースを隠してランナーを身体で止めていたことありました。2人とも出されたチームに逆恨みしていてのか?
まだラッキーゾーンがあった時代。バイクというよりスーバーカブでした。
ス-パ-カブに書かれていたスポンサー名「ビオフェルミン」今も覚えてる。
シュートが武器の中継ぎ投手でした。
リクエストにお応えいたたき、ありがとうございます。
当時の池内、福間、山本のリリーバーをヒントに、岡田監督は、JFKを編み出したのかもしれませんね。
いくらなんでも130試合制で73試合登板は異常だな
選手には拒否権はないのかな?
仮に1イニングしか投げなくてもキツイ
1ヶ月に約11試合ペースの登板
月21試合平均とすると半分超えてる異常値
このくらいの阪神は真似しがいのある投手が多かったなあ。小林繁は勿論、ポイッと投げる感じの工藤、真似したら投げやすかった山本和、そしてクイッと体を落として捻るのが楽しい池内。懐かしいなあ♪
この方もダメ虎時代には欠かせない投手。
本当によく投げてましたよね。
長崎選手とのトレードは阪神としては奇跡的な成功だと思います。
3:22星飛雄馬も乗ってた。(原作)
先発完投が多かった時代でも
タイガースは福間さんとか中継ぎ投手の
登板が多く、弱投と言われていたのは
本当だったのだろうな
T時代、C衣笠祥雄内野手に死球を与えて衣笠氏を激怒させたシーンは今も記憶に残っています。
懐かしい😊
幼少期に甲子園で現地観戦した時、衣笠さんにぶつけて衣笠さんがマウンドに歩を進めたところ、ベンチに逃げ帰ったのを覚えている。
衣笠さんは晩年、死球を受けても紳士的な対応をされていたが、逃げた池内さんの反応も含めて衣笠さんは怖い選手という印象を強く植え付けられてしまった😅
大ファンでした。ありがとうございます。
抑えのころは、球がホームベースあたりでクチュクチュっと震えるように動いていた。
あの張本さんが「打ちにくい」と言ってた。
ほんと、不思議なフォームで、不可思議な球でした。
しかし、80年代前半からこんなに中継ぎを酷使してたTigersって😅
池内投手と一緒に阪神に来た長谷川勉投手は前年度の南海ドラフト1位。それをたった1年でトレードに出すというのは異例。今でも何があったのかと思ってしまいます。
サイドスローのセットアッパー。
三重テレビナイターの阪神戦でおなじみの投手でした。
独特のフォームでした。もうちょっと映像が見たいです。
なんか向こう気の強い投手だった記憶がある。判定への不満が顔に出たり、負け試合でマウンドを降りる際の態度の悪さ(巨人ファンから見ての話。つまりはふてぶしさ)が印象に残った。
月亭八方さんがよく池内の名をマクラに出したが、東京のファンにはあまり受けなかった。東京じゃ池内の名はさほど知られていなかったから。発砲さんは「東京はなじめませんわ」と言っていた。
志度商業の投手、池内投手の後年にも蹴り足を軸足に巻きつけるようなフォームの投手が見られましたね。同じ指導者だったのかもしれませんね。
数字以上に活躍していたと記憶に残ってます。
とにかく、いつも出て来て、踏ん張ってくれるイメージ。